谷 美那子
京セラ株式会社 経営推進本部 本部室 Sプロジェクト責任者 兼 matoil開発課責任者
金沢美術工芸大学製品デザイン専攻を卒業後、三洋電機に入社。京セラへの転籍後、通信機器事業本部にてUIUXデザインを担当。ボトムアップによる新規事業創出の取組みである社内Start Up Programの選考を通過し、2021年10月より食物アレルギー対応サービス「matoil」を開始。自身の原体験から、当事者だけが課題を抱えることのない社会の実現を目指す。
2023年、イノベーションの創出を支援する産官学のオープンイノベーションプラットフォームTMIP(Tokyo Marunouchi Innovation Platform)は、設立5年目を迎えました。今後さらにイノベーション創出を後押しするべく、大企業を対象として「社内外の壁を越えて新たな価値・事業創出に取り組んでいる優れた事例」を表彰する制度「TMIP Innovation Award」を新たに創設。
過去5年間(2018〜2022)に立ち上がった新規事業の中から、市場規模や革新性、社会課題の解決に対する姿勢など、さまざまな観点を踏まえ、次の時代を担う大企業発の新規事業を評価します。今回はのべ50件のエントリーが集まり、その中から4つの優秀賞と1つの最優秀賞を決定。2023年11月30日に表彰式を開催しました。
最優秀賞に選ばれたのは、京セラ株式会社が運営する食物アレルギー対応のオーダーメイドサービス『matoil(マトイル)』です。本記事では『matoil』を立ち上げ、現在も同サービスの責任者を務める谷美那子さんをお招きし、新規事業を創出するに至った経緯から、立ち上げ時に立ちはだかった壁、そして今後の展望を伺いました。『matoil』が目指す「(食事を通した)ソーシャル・インクルージョン」とは、どのようなものなのでしょうか。表彰式での審査員からのコメントや、谷さんの言葉と併せてお届けします。
自身の食事に対する課題から、食物アレルギーに着目
『matoil』は、食物アレルギーの子どもを持つご家庭向けのミールキットの販売や、子ども向けのオンライン料理教室の開催を通し、誰もが食べたいもの・食べられるものに出会い、食事を選べる「ソーシャル・インクルージョン(社会的包括)」の実現を目指すサービスです。
食物アレルギーがあるお子さまがいるご家庭では、使用できる食材が限られており、惣菜も利用しづらいことから、日々の料理が負担となっているケースがあります。さらに、何を使っているかがわかりづらいため、気軽に外食が出来ず、旅行に行きづらいといった課題も。そういった食物アレルギーがある方、そしてそのご家族が抱える課題を解決するためにサービスを展開。
『matoil』の立案者であり、matoil開発課責任者を務める谷さんは、金沢美術工芸大学を卒業後、三洋電機にデザイナーとして入社。その後、京セラが三洋電機の携帯電話事業などを継承したことをきっかけに京セラに籍を移し、通信機器事業本部にて、デザイン業務を担当していました。新規事業に興味を持った背景には、デザイナーとしての役割を超えて、もっと事業全体に貢献したいという思いがありました。
谷さん「三洋電機に在籍していた頃、デザイナーとして事業に携われることに満足していたのですが、M&Aなどをきっかけに、事業がうまく回らなくなると、自分が好きなデザインの仕事ができなくなってしまうかもしれないことを痛感しました。
もっと事業に貢献したい気持ちはあったものの、デザイナーという役割の中でできることには限界があると感じるようになって。より事業に貢献するためには、まずは事業立ち上げからグロースまでを知る必要があると思っていたとき、京セラ社内で『新規事業アイデアスタートアッププログラム』が開始されることを知りました。
このプログラムでは事業案を提出し、そのアイデアが通れば事業化を進められるのみならず、応募によって事業立案や推進に関わる教育プログラムを受けられることを知り、私が求めていた事業に関する知識が得られると感じ、応募しました」
「京セラ新規事業アイデアスタートアッププログラム」は、誰もが積極的にチャレンジできるボトムアップ型の企業風土の醸成を目指し、2018年12月からスタート。京セラの既存事業領域に捉われない新規事業を創造し、その事業を通して社会課題を解決することを目的としています。『matoil』は、このプログラムの第一期で、応募総数800以上の案の中から採択されました。
谷さんは、なぜ「食物アレルギー」に着目したのでしょうか。背景には、谷さんご自身の経験がありました。
谷さん「自分自身がアレルギーを持っているんです。アレルギーの種類は人によって異なるため、外食先や食事を提供してくださる方に毎回何が食べられないのかを伝えなければなりません。場合によっては、食事に参加すること自体をお断りしなければならない時もあって、どうにかならないかと感じていました。
食物アレルギーを持つ方の課題解決を目的としたサービスであれば、自分ごととして捉え、事業推進もやり遂げられるだろうと思ったことが、『matoil』の出発点です」
「当事者=良きサービス提供者」ではない
選考を通過したアイデアは、レストラン側がメニューに含まれるアレルゲンを、ユーザーが自らの食物アレルギーを提示し、マッチングをかけるアプリだったと言います。書類選考を通過したものの、シェフやアレルギー当事者に詳しい専門家と話をするなかで、レストラン側がこのアプリを導入するハードルの高さを感じ、もっと直接的にアレルギー当事者の課題を解決できないかと、2020年6月に方向転換することを決定。
この決定が、現在の『matoil』につながっていきます。
2020年7月の終わりから12月にかけて、食物アレルギーがある方向けのミールキットを無償で提供。翌年12月からは、有償での提供を開始し、サービスとしての実証実験を実施しました。
谷さん「有償でお食事をお届けするにあたって、営業許可を取得する必要がありました。『拠点となる事務所を構えたい』と上層部に伝えたところ、『それをしなければ次に進めないのならば』と承諾をいただきました。会社が協力的な姿勢を見せてくれたことがありがたかったですね」
実証実験では、ユーザーが感じている課題、喜んでもらえるポイントを、さまざまな商品やサービス提供を通して検証。検証を繰り返す中で「アレルギーがある当事者として、お客様のことは理解しているつもりでしたが、『サービス提供者』にならなければ気付けなかったことがたくさんあった」と振り返ります。
谷さん「お客様のために良かれと思って取り組んだことが、裏目に出てしまうことがありました。
例えば、『期間限定』『数量限定』の製品は希少価値が感じられ、一般的にはお客様に喜んでもらえるし、短期間での売上も見込めます。ところが、実際には『うちの子は症状が軽いので、もっと大変な子に譲ってあげてください』と、むしろ『限定』製品の購入を避ける優しい方が多かったんです。
私は当事者として、食物アレルギーがある方々のことはわかっているつもりですし、その大変さも共有できているはず。しかし、そのことは『求められているサービス』を理解していることには直結しないんですよね。これは、サービスを提供する側になってみなければわからなかったことだと思います」
目指すは「すべての人が、同じ時間と思い出を共有できる社会」
そうした発見を踏まえ、谷さんは「お客様の声に耳を傾けること」を何よりも重視するようになったと言います。だからこそ『matoil』は「気軽に食物アレルギーに関することを相談できる存在」を目指し、オンライン/オフラインを問わず、さまざまな機会を通じてユーザーと対話する機会を設けています。
ユーザーとの対話では、「レストランのような華やかな食事を食べさせてあげたいけれど、なかなかうまく作ることができない」という悩みや、「たまには(自分以外の)人が作ってくれた料理を食べたい」という切実な声も聞かれたそうです。
そんな悩みを解決するために、『matoil』は食物アレルギーや嗜好に合わせてオーダーメードで注文できるフルコースのごちそうキット『anniversary meal kit』を用意しています。
谷さん「アレルギーがあるお子さん達は、おやつや給食、イベントごとの料理などで、他の子との違いを感じる場面がたくさんあります。せっかく食事メニューが違うなら、むしろみんなにうらやましがられるような特別なものにしたい。
そこで、誕生日などの記念日に着目。おいしい食事を食べながら特別な日を祝う幸せなシーンに光をあてることで、アレルギーがある方の『食べたい』気持ち、またはご家族の『(おいしい食事を)食べさせてあげたい』気持ちに、できるかぎり応えていければと思っています」
また、谷さんは「一番の問題は、食物アレルギーによって食べられないものがあることではなく、それによって行動が制限されることだと考えている」と言います。行動が制限される、とはどういうことなのでしょうか。
谷さん「たとえば、修学旅行。これまで私たちは修学旅行の宿泊先に食事を届けてきました。従来、重度の食物アレルギーを持っている子どもたちが修学旅行での食事をどうしていたかというと、2泊3日であれば6食分の缶詰やレトルト食品を持ち込むか、事前につくった食事を冷凍し、ご家族が宿泊先に届けるしかありませんでした。
中には、自費で宿泊先の近くに出向き、お子さまのために料理をして渡していた方もいるほど。アレルギーがある方やそのご家族は、それほど大変な場面に直面することもあるんです。
もちろん、ホテルなどを運営している事業者のみなさんもなんとかしたいと考えており、お客様だけではなく、さまざまな事業者の声を聞くことで徐々に課題が見えてきています。それらの課題を解決し、食物アレルギーの有無を問わず、全員が同じ時間と思い出を共有できる状態を実現したいですね」
重要なのは、お客様の「笑顔」を知ってもらうこと
matoilの成長の影には、TMIPの存在もありました。
京セラ株式会社はTMIP会員でもあり、谷さんはmatoilの拠点がなかった時期に、三菱地所が運営する施設「3×3 Lab Future」でオンライン料理教室を配信。さまざまな国の企業が集い、さまざまな国籍の方が行き交う丸の内は、サービスを国内外に向けて発信する上で最適なエリアだと感じていたと言います。今回、さらなる認知度獲得と、未来の協業先を求めて「TMIP Innovation Award」にエントリーしたそうです。
そして、matoilは最優秀賞を獲得。
2023年11月30日に開催された表彰式では、審査員を務めたPlug and Play Japan株式会社・取締役CMOの藤本あゆみさんから「素晴らしい取り組みで、リピート率も高く、もっと成長が見込めると思います」と前向きなコメントが寄せられると共に、「事業拡大にあたって、食物アレルギーがあるお客様一人ひとりに合わせたカスタマイズ対応を維持することは難しいように感じます。どのような展開を検討されているのでしょうか」と問いが投げかけられました。
谷さん「食物アレルギーがある方、あるいはそのご家族からのご相談に乗る中で、包括的にさまざまなアレルギーに対応できるメニューが見えてきました。もちろん、今後も一定のパーソナライズはしていかなければならないと思いますが、今後は汎用性の高いメニュー開発を進めていき、よりたくさんの方々の元に届けていきたいと考えています」
より多くの方にサービスを届けるという目標を達成するためには、汎用性の高いメニュー開発ではなく、デリバリー体制の拡充が鍵になると谷さん。そのために、組織の壁を超えた協業が必要だと考えていると言います。
谷さん「さまざまな事情で、ミールキットを受け取っていただけない宿泊施設や食事処も少なくありません。また、最近ではインバウンドの旅行者も増えていますが、民泊施設を利用されている場合、宅配便の受け取りを断られてしまうこともあります。
そういった場合、直接お渡しするしかないのが現状ですが、サービスの拡大を考えるとかなり無理があります。バイク便を使ったり、ロッカーを借りたりするなど、さまざまな手段を考えているのですが、まだ解決の糸口は見つかっていません。配送に関する課題を解決できる企業があれば、ぜひご一緒したいと思っています」
最後に谷さんは、大企業において新規事業を立ち上げる上でのポイントと、新規事業を育む風土についてこう言及しました。
谷さん「大企業において新規事業を立ち上げる場合、もちろん売上などの『数字』は重要です。しかし、数字だけを見ていたら分からないこともあると思います。だから私は、社内でサービスの進捗を報告する際、数字だけではなく、お客様からの声や、笑顔でmatoilのごはんを食べている様子を写真で見てもらうようにしています。経営的な判断を下す方々にも、アレルギーがある方々の苦労や課題、matoilが提供できる喜びを共有することで、事業の意義を感じていただきたいからです。
それでも、数字が上がらなければ不安になることもあると思います。実際に私も、あるとき不安になり、社長に『私はこれまでビジネスの勉強をしてきたわけでもないので、このまま進めて行っても大丈夫でしょうか』と正直に相談したことがあるんです。そのとき社長が『儲けようと思ってやってもうまくいかない。まずは、お客様に喜んでもらうこと。必要としてくれるお客様がいて、その先に事業として成り立つものだと思うから、そのまま頑張って欲しい』と言ってくれました。
トップがそういった目で見てくれているからこそ、この事業は続けられていると思いますし、新規事業を育むためには収益だけにフォーカスしすぎず、サービスが誰のどんな課題を解決し、笑顔をもたらしているのかをしっかりと伝えていくことも重要なのではないかなと思います」
共創プロジェクト
2024.5.23
「~丸の内エリアから始めるソーシャル・インクルージョンの実現に貢献~「アレルギー※1・グルテンフリー・ヴィーガン食に対応」お弁当デリバリーサービスMARUDELI、新たにmatoil(マトイル)のお弁当が登場」
2024/10/1
「~JR東京駅の利便性向上とソーシャル・インクルージョンの実現に貢献~ 冷蔵受取ロッカーでアレルギー対応食matoil(マトイル)の お弁当受け取りサービスを開始
実証実験期間:2024.10.1(火)~2025.3.31(月)」