河邊俊輔
株式会社野村総合研究所 コンサルティング事業本部 AIコンサルティング部 プリンシパル
京都大学大学院 機械理工学専攻修了、2010年に野村総合研究所(NRI)入社。製造業・商社の戦略立案・事業開発・技術経営に携わる。2014年にNRI採用担当に就任。デジタル広告でエントリー数を3倍に。2016年から小売・消費財のDX、リテールメディア事業の立ち上げに従事。2020年に米Columbia Business School(MBA)へ留学。人材・組織論とテクノロジーの融合領域を中心に学ぶ。2022年から現職。社内制度でTalent Market Placeを起案し、事業開発を継続。
大企業の新規事業創出支援や大企業とスタートアップ、産・官・学・街との連携で事業創出を目指すオープンイノベーションプラットフォームTMIP(Tokyo Marunouchi Innovation Platform)。昨年に続き、大企業がオープンに新規事業に挑戦する社会を目指し、大企業発の“新規事業創出”を表彰する「TMIP Innovation Award 2024」が開催されました。
過去5年間に立ち上がった新規事業の中から、市場規模や革新性、社会課題の解決に対する姿勢など、さまざまな観点を踏まえ、次の時代を担う大企業発の新規事業を評価します。2024年12月4日、最終選考に進んだ5つの事業によるピッチを経て最優秀賞、優秀賞、日経ビジネス賞、オーディエンス賞を決定しました。
本記事では、入賞を果たした株式会社野村総合研究所(以下、NRI)の新規事業『Talent Market Place』を取り上げます。生成AIを用いて社内の人材配置を最適化する本サービスを、NRIの社内制度を利用して立案・開発した河邊俊輔さんをお招きし、『Talent Market Place』が解決しうる日本の人事領域分野の課題や、NRIだからこそ実現できた新規事業の魅力について、詳しくお話を伺いました。
「人だけで人を評価する」仕組みには、限界がある
NRIの新規事業『Talent Market Place』は、生成AIを活用して「企業内で実行される業務」と「人材の意志・能力」を可視化したバーチャルな「社内人材市場」を形成し、業務と人材の最適なマッチングを実現するシステムです。
この『Talent Market Place』事業の立案・開発を手がけた河邊さんは2010年にNRI入社後、2014年に新卒・中途の人材を採用する部署に配属。「入社以前から、人材をどう生かすかが重要と考え、人事や採用には興味を持っていた」と話す河邊さんですが、採用担当としての業務を経験するうち「この先、従来の採用制度・評価制度は機能しなくなるのではないか」という課題意識が芽生えたと言います。
河邊さん「現在、日本企業のほとんどが採用試験において面接を導入しており、一回あたりわずか30分ほどの面接で『人だけで人を評価』しています。面接の代替手段がないこともたしかですが、面接を通して得られる人材の情報はほんのわずか。その手段による評価では、人材が備えているスキルやパーソナリティを見逃してしまっているのではないかと思っていました。
しかも面接での評価コメントが次の面接担当者にしっかりと引き継がれていないという採用プロセス上の問題もよく指摘されています。また、評価や配置も属人的な要素を排除できていません。人事領域において、人が人を評価すること自体に限界があるんじゃないかと考えたのです」
こうした状況をなんとか解決したいと漠然と考えていた中で、河邊さんはテクノロジーを活用してさまざまな人事業務の効率化に成功。その経験から、「テクノロジーが人事業務の抜本的な変革に役立つんじゃないか」と実感したと言います。
河邊さん「採用担当時代、面接や書類の情報の一部をデータ化することで応募者や面接担当者の特徴分析ができたり、デジタル広告を使ってエントリー数を3倍にできたりと、テクノロジーを活用することで大きな成果が得られました。
もちろん、人事領域においては『人』の力、『人』の判断が重要です。そこにテクノロジーを組み合わせることで、より効率的で精度の高い人事業務を実現できるのではないかと思いました」
アメリカで体験した「テクノロジー×人事」の最前線
「テクノロジーが人事の未来を変えるかもしれない」という希望を抱いた河邊さんは、2020年からアメリカのMBAスクールに留学し、人事領域におけるテクノロジーの活用法を中心に学びます。そこで出会ったのが「Talent Marketplace(社内人材市場)」と呼ばれる人事領域における欧米独自の新たなコンセプトでした。
河邊さん「このTalent Marketplaceは人材が持つスキルを評価軸にするジョブ型雇用が根付く欧米ならではのものであることは認識していました。ただ、バックキャストで考えると、慢性的な人材不足が大きな課題である日本においても、5年後には実現しておかなければならない仕組みだと思いました」
欧米では個人が持つ「スキル」や、各企業内に存在する職務(ジョブ)の明確な定義があり、このスキルとジョブのマッチングで人材を雇用する「ジョブ型雇用」が主流となっています。
日本においても、ジョブ型雇用への移行が進みつつありますが、2021年に日本の企業を対象に実施されたアンケート調査では、「すでに導入している」と答えた割合は18.0%にとどまり、「導入を検討している(導入の予定がある)」と答えた割合は39.6%と、大半の企業がメンバーシップ型雇用を維持しています。そのためジョブとスキルのマッチングよりも、企業理念に対する理解度の高さや、企業風土に合うかどうかを重視して人材を採用する傾向にあります。
また、河邊さんいわく、「ジョブ型を推進している企業でも、実態としては従来の日本企業型の意思決定がなされていることが多い。配置転換の場面で『職務内容との親和性』ではなく、『前任者に近しいパーソナリティやスキルを備えていること』が優先されるケースは少なくない」。その一因は、メンバーシップ型雇用が基本となっているからこその「『ジョブ』に対する解像度の低さ」だと言います。
河邊さん「たとえば、欧米では一つ一つの職種やスキルを表す言葉から想定される能力について、皆が共通認識を持っています。『営業のスキルを備えている』ということは、『商材の特徴を理解し、さまざまな売り込み方を検討し、売上をあげながら顧客ネットワークも構築できる』ことを指し、『営業』というジョブでさまざまな企業へ転職します。こういった解釈はどの企業においてもあまりぶれることはないんです。つまり、企業間で特定のジョブに求められるスキルの定義が揃っている。
一方、日本における『営業』は、企業で積む経験の一要素のような位置づけで、場合によっては『客先を回った経験がある』程度の意味しか持たないことも珍しくありません。実際にどのようなことができるのか判然としないまま採用され、営業に配置されるケースも少なくない。メンバーシップ型が根付く日本では、現状の各担当者の職務が明確な範囲に閉じていないため、そもそも職務を定義することが難しいのです。
このジョブ型雇用とメンバーシップ型雇用のギャップを埋めるサービスを提供することが、NRIの新たなビジネスになりうると考えました」
これまで見えてこなかった「業務に必要なスキル」を可視化する
2022年に帰国後、早速河邊さんは日本でも受け入れられるTalent Marketplaceを開発するため、NRIの新規事業を構想します。
「コンセプトを書いた一枚紙をもって、社内のいろいろな方に相談し、アイデアをブラッシュアップした」という河邊さん。その後、社内のボトムアップ型R&Dプログラム「チャレンジ分科会」に応募。事業性の検証、社内・社外PoCといったステップを経て、2023年より『Talent Market Place(TMP)』の提供を開始します。
『Talent Market Place』は、主に人事部メンバーをユーザーとするデータベースであるタレントマネジメントシステムとは異なるサービスです。生成AIがあらゆるシステム・ファイルの人材・業務データを読み取り、スキル・意向などの重要情報を抽出することで、配置検討など人事の意思決定に最大限活用できる分析結果を提供します。
また、すでにタレントマネジメントシステムを導入している企業であっても、システム外にエクセルやパワーポイントでまとめられたデータが存在し、それらのデータは「人が読み込まなければ使えないテキストデータ」であることがほとんどです。NRIの『Talent Market Place』は、システム上に蓄積されているデータを生成AIで読み取り、各社独自のスキル定義を構築したうえで、「対人ネットワーク構築」「データ分析・モデリング」「クラウドベース開発」など、さらに詳細かつ適切なスキル・コンピテンシー判定を可能にします。
さらに、スキル・コンピテンシーだけでなく、経験、実績、意向などの情報を、各社の判定基準にカスタマイズした形で抽出することができます。
河邊さん「既存のタレントマネジメントシステムでも、AIを駆使して人事配置に活用できるデータを取得することはできます。ですが、市場調査を行ったところ、こうしたシステムに導入されているのは汎用的なAIであるがために、個別企業のニーズに対応しきれていないことがわかったんです。
ほかにも、人材の情報を可視化できるのはいいものの、長文のテキストで出力されるために情報量が多すぎて『(出力されたテキストを読む)人事部のリソースが確保できない』『現場の人間がそもそもデータ入力をしてくれない』など、人がボトルネックになり悪循環が生まれていたこともわかりました。
『Talent Market Place』は、各企業の人事データを生成AIにすべて読み取らせることで人材の重要情報を可視化。人事部はその情報を活用することで、より戦略的な人材配置ができるようになります。そして、「その時に重要なのが、人事の方々がどのような軸でどのデータを見て、どのように考えているかという思考フローを明らかにすること」だと河邊さんは続けます。
河邊さん「各社特有の業務フローと思考フローを明らかにして、生成AIの仕組みに落とし込む。これは、お客様の事業と業務を理解するNRIのコンサルタントとデータサイエンティストだからこそできることです。
加えて、マッチングアルゴリズムが経営・人事部側と社員側双方の希望や制約条件を最大限満たすマッチングパターンを提案してくれたり、また異動理由の説得力や納得感が増すように、社員一人ひとりのパーソナリティに沿った文章を出力してくれたりするので、異動の際のハレーションも起きにくくなります。こうしてしっかりデータが活用されると、今度は現場もメリットを感じて積極的にデータ入力してくれるようになるんです」
NRI社内の実証実験では、異動や兼務希望について、『Talent Market Place』導入前と比較して応募者数が10倍に、また希望通りの異動や兼務が実現した社員の数が7倍になるという効果が確認されていると言います。加えて、『Talent Market Place』を導入した顧客からは「人材スキル判定において、人間が判定した場合と、AIが判定した場合のスキル内容が9割方一致した」という声も挙がり、リリース後1年でありながら高い正確性を実現していることが確認できました。
取引先からのNRIへの信頼が、サービス導入のきっかけに
日本企業の人材配置・雇用の効率性を大きく向上させうる『Talent Market Place』ですが、河邊さんは事業化に至るまでを振り返り、「もちろん初めから上手く進んだというわけではなかった」と話します。
河邊さん「苦労したのは、社内での実証においても、社外での実証においても『最初の一歩』を踏み出すことでした。協力してくれる部署や企業が、なかなか見つからなかったんです。
『Talent Market Place』のコンセプトに賛同いただける方は多かったんですが、いざ実証するとなると、データの用意や現場への協力要請など、どうしても負担をかけてしまい……。
新規事業立ち上げに関わったことがある方なら共感いただけるかもしれませんが、実績もないため、効果を伝えるのも難しく、なかなか最初の一歩が踏み出せませんでした」
社外PoCでは3か月で100社を超える企業に相談を持ちかけましたが、人事担当や役員が個別に興味を持ってくれても、顧客内の決裁がなかなか進まず、「どうしてうまくいかないんだ」と悩むこともあったという河邊さん。そんな中、初めて引き受けてくれた協力企業は、以前からNRIと深い付き合いがあった企業だったそうです。
河邊さん「人事にテクノロジーを活用するというテーマは、人事部だけでなく経営陣や事業部門やIT部門の現場を巻き込んで進める必要があり、『おもしろい!やってみたい!』と強い興味をいただいても、実際には進められないという時間が続きました。
もちろん想定アウトプットを丁寧に説明し、少量のデータでサンプル出力したり、データ加工を丸ごと請け負ったりと、現場の方々の業務負担を減らす工夫を実践しました。また、社内PoCの実績やアプローチを具体的に伝えることで、成果に対する期待をいただいたことも要因の一つだと思いますが、結果的に導入の決め手となったのは『信頼のあるNRIだから』。
NRIのネットワークを駆使することで経営トップだけではなく、各現場にもアプローチすることができました。また、セキュリティ意識が高まり、個人情報保護に関する規制が強まる昨今、各社の人材・業務情報を預かって分析することのハードルは決して低くありません。『Talent Market Place』はNRIがこれまで積み上げてきたコンサルティング・データサイエンス・システムエンジニアリングのナレッジ、そして、お客様からの信頼があってこそ成立するビジネスなんです。
最初の1社が決まってからはどんどんお客様が増え、製造業、消費財、金融、人材サービス、広告メディア、通信、エネルギーなど各業界の最大手のお客様と活動を推進しています。『想像を超えるアウトプット』『ずっとこれが欲しかった』『どんどん活用のアイデアが浮かぶ』とお声をいただいていて、来年には数10社のお客様へサービスを提供する予定です」
NRIという大企業ならではメリットは、「顧客からの信頼が蓄積されていること」だけではありません。彼の意見を真摯に受け止めてくれる上司や、盤石なコーポレート機能、そしてビジョンに共感してくれた同僚たちが、新たな取り組みに挑戦する河邊さんの支えとなりました。
河邊さん「新規事業となると理解を得ることが難しく、なかなか取り合ってもらえない時もありますよね。私の場合、最初に相談を持ちかけることができたのは、留学前の上司で、帰国時に人事担当役員だった柳澤(株式会社野村総合研究所 代表取締役 社長 柳澤花芽氏)でした。柳澤がしっかりと話を聞いてくれて、必要に応じてさまざまな部署の方々につないでくれ、さらにそこから別の方を紹介してくれて。早い段階で応援してくれる方々に出会えたことが本当に助けになりました。
NRIには法務知財、財務経理、システムセキュリティ・リスク管理など、大企業だからこその万全なコーポレート機能が備わっています。そういった部署で働くみなさんからの協力が得られたからこそ、スムーズに事業を進めることができたと思っています。
また、NRIには単体でも7,000人以上の社員が在籍しています(2024年3月31日時点)。社内のチャットツールを活用すればさまざまな部署やコミュニティの方に相談ができるので、少しでも迷ったことがあれば、すぐに解決策を知っていそうな方に相談していました。小さなことでもとにかく投げかけてみることで、協力してくれる人がどんどん増えていったので、社内のメンバーとのコミュニケーション頻度を上げることもすごく大切だと実感しています」
「進捗は3%」。人的資本インフラの構築に向けて、組織の壁を越えた協働を
社内外を問わず、たくさんの方々の協力を得られたからこそ、新規事業としてのスタートを切ることができた『Talent Market Place』。しかし河邊さんは「『Talent Market Place』で実現したいことのうち、今は3%程度しか進んでいないと思っています」とし、「さらに事業を前に進めるためには、さまざまな企業での活用や企業の壁を越えた連携が必要だと感じ、出会いを求めてTMIP Innovation Awardへの参加を決めました」と語ります。
そんな思いを持って参加したTMIP Innovation Awardにおいて、『Talent Market Place』は見事に入賞を果たします。
特別審査員を務めた、早稲田大学大学院 早稲田大学ビジネススクール教授・入山章栄さんは、「人事部がボトルネックとなり、成長が止まってしまっている日本企業は多い」とし、人事業務、ひいては日本企業を大きく変え得る『Talent Market Place』への期待感をのぞかせました。
河邊さんに今後の展望を聞くと、「業務と人材のマッチング」にとどまらず、人事領域全体の変革に向けた熱い思いを語ってくれました。
河邊さん「『Talent Market Place』の生成AIを社内マッチングだけでなく、スキルベースマネジメントを実現するコア技術として、採用支援、研修支援、次世代経営育成、人材ポートフォリオ管理など、まさに人的資本経営を実現するための用途に拡大しています。
この先、『Talent Market Place』の機能やサービスの拡張を進めていくことで、誰もがポテンシャルを最大限生かせる仕事に就ける社会にしたい。ビジネスとしての経済的価値だけでなく、社会的価値の高いサービスにしていきたいんです。そのためには産官学のたくさんの人たちとともに、もっとこの事業を大きくしていかなければならないと思っています」