
谷 美那子
京セラ株式会社 経営推進本部 本部室 Sプロジェクト責任者 兼 matoil開発課責任者
金沢美術工芸大学製品デザイン専攻を卒業。京セラ入社後、通信機器事業本部にてUIUXデザインを担当。ボトムアップによる新規事業創出の取組みである社内Start Up Programの選考を通過し、2021年10月より食物アレルギー対応サービス「matoil」を開始。自身の原体験から、当事者だけが課題を抱えることのない社会の実現を目指す。

守屋 実
新規事業家
ミスミに入社後、新市場開発室でメディカル事業の立ち上げに従事。2002 年に新規事業の専門会社エムアウトをミスミ創業オーナーの田口氏とともに創業、複数事業の立ち上げおよび売却を実施。2010 年に守屋実事務所を設立。新規事業家としてラクスル、ケアプロの創業に副社長として参画し、2018 年にブティックス、ラクスルが 2 か月連続上場。博報堂、JAXA などのアドバイザー、東京医科歯科大学客員教授、内閣府有識者委員などを歴任。近著に『新規事業を必ず生み出す経営(日本経営合理化協会)』、『起業は意志が 10 割(講談社)』、『DX スタートアップ革命(日本経済新聞出版)』、『新しい一歩を踏み出そう! (ダイヤモンド社)』など。

大淵 鮎里
TMIP事務局(三菱地所)
新卒で鉄道会社に入社し10年以上、鉄道アセットを活用した社内新規事業開発を経験。2022年に三菱地所に入社。TMIP事務局にてTMIP Innovation Award(大企業発新規事業創出の表彰制度)の企画・実行や会員の事業成長に伴走。
2023年11月30日、大企業発の“新規事業創出”を表彰する「TMIP Innovation Award 2023」において、京セラ株式会社(以下、京セラ)が運営する食物アレルギー対応のオーダーメイドサービス『matoil(マトイル)』が最優秀賞を受賞してから約1年。受賞後TMIPは『matoil』の事業伴走を開始し、これまで丸の内を舞台にさまざまなプロジェクトを実施してきました。
オフィスお弁当デリバリーサービス『MARUDELI』と連携したアレルギー・グルテンフリー・ヴィーガン対応食の提供や、東京駅の冷蔵ロッカーで製品の受け取りを可能にするJR東日本スマートロジスティクスとの取り組みなど、『matoil』の新たな可能性を模索するための取り組みを展開。今後もさらなる事業拡大に向けた取り組みの実施を予定しています。
今回は『matoil』の事業責任者である谷美那子さん、『matoil』を伴走支援してきたTMIP事務局の大淵鮎里、そして「TMIP Innovation Award」の審査員で、TMIPメンターでもある守屋実さんをお招きし、インタビューを実施。
アワード受賞後の『matoil』の事業展開をお伺いしながら、その過程で得られた気づき、また事業伴走してきたTMIPの役割や意義、そして共創による事業成長の可能性についてお話していただきました。
TMIP Innovation Awardの受賞が、「次なる一歩」を踏み出すきっかけに
誰もが「食べたい」を叶えられる、ソーシャル・インクルージョン(社会的包括)を実現する——谷さんのそんな思いから始動した『matoil』は、2018年に京セラ初の新規事業アイデアスタートアッププログラムとして採択され、2021年より事業検証を開始。食物アレルギーの子どもを持つご家庭向けのミールキットの販売や、子ども向けのオンライン料理教室の開催など、さまざまなサービスを展開してきました。
この事業がスタートした当初から、アレルギーを持つカスタマーを対象にしたtoCサービスとしてはもちろんのこと、ホテルやレストランといった飲食提供事業者と連携をしたtoBサービスとしても展開したいと考えていたという谷さん。しかし、「当時は人員や予算などのリソースが限られていたこともあり、事業をスケールさせるための次なる一歩をなかなか踏み出せずにいた」と、「TMIP Innovation Award」で最優秀賞を受賞した当時の状況を振り返ります。
谷さん「限られたリソースのなかで事業を進めなければならなかったため、toBサービスとして展開するための仮説も具体的に立てられていない状態でした。
また、『matoil』の利用者からさまざまな意見をいただいていましたが、踏み込んでリサーチすることもできず、実際のユーザー像が明確になっていないという課題もありました。
これを解決していくためには、我々と同じように「食」や「アレルギー」に向き合う事業者の皆さんと交流する機会を増やしていかなければならない。そんな風に考えていたものの、きっかけが掴めずにいました」

京セラ株式会社 経営推進本部 本部室 Sプロジェクト責任者 兼 matoil開発課責任者 谷 美那子さん
『matoil』を伴走支援してきたTMIP事務局の大淵は、TMIPを運営する中で新規事業を推進する大企業の担当者との対話を数多く重ねてきました。谷さんが抱えていた「外部とのリレーションが少ない」という課題は、多くの新規事業担当者に共通するものだと認識していたという大淵。2023年に立ち上げたアワード自体が、この共通課題を解決する手立てになりうると感じていたと語ります。
大企業発の新規事業を加速させる、「発信」と「つながり」のプラットフォームへ──TMIP Innovation Award立ち上げの軌跡と展望
大淵「『matoil』はその成長性の高さから最優秀賞を受賞され、多くの方々に『matoil』の社会性、成長性の高さを理解していただくきっかけになったと感じていました。
しかし、私たちとしてはアワードを事業の魅力を伝える場にするだけではなく、共創のきっかけにしたいと考えています。大企業発の新規事業を発信する機会を提供することで、新規事業に挑戦する皆さんの交流を生み出し、その交流を新たなプロジェクトや共創につなげたい。
そして、私たちTMIP自身も場を提供するだけではなく、一緒に事業を加速させる存在になりたいと考えていました。設立から5年、新規事業の成長には社外のパートナーが欠かせないと感じていましたし、TMIPがこれまで積み重ねてきたさまざまな経験と知見が、共に新規事業を成長させる伴走者としての役割を果たせるのではないかと考えていました。」

TMIP事務局 大淵鮎里
協業に踏み出したからこそ気づけた、『matoil』の新たな可能性
そうして2023年11月のアワード終了後、TMIPの事業伴走がスタートしました。
大淵はその第一歩として、谷さんが抱えていた「外部との交流機会が少ない」という課題から取り掛かりました。「ただ事業の特性に合う企業を紹介するだけでは、パートナーの役割を果たしているとは言えないと考えていた」と大淵はいいます。まずは谷さんを始めとする『matoil』のメンバーと対話する機会を設け、『matoil』が実現したいビジョンを深く理解し、その実現のための次なる一歩を共に模索していきました。
そうして、TMIPが持つ広範なネットワークの中から、「食」や「アレルギー」というキーワードをもとに『matoil』の事業形態に合う企業をピックアップし、谷さんに協業を提案。ディスカッションの結果、丸の内エリアを中心に企業向けフードデリバリーサービス『MARUDELI』を展開する、三菱地所プロパティマネジメントとの協業の可能性を探ることになります。
丸の内エリアは、日本企業だけではなく、数多くの外資系企業が拠点を構えるエリアとしても知られており、協議を開始した当時『MARUDELI』には外資系企業から「グルテンフリー、ヴィーガンといった、社員のさまざまな嗜好・ニーズに対応できるメニューがほしい」という要望が寄せられていたそうです。その要望に応えるためのラインナップ拡充が喫緊の課題でした。谷さんは『MARUDELI』との協業を模索する中で、『matoil』というサービスの新たな可能性に気づくことになります。
谷さん「私は食物アレルギーがある方を対象としたサービスとして『matoil』を構想し、すべての方が共に食べられるさまざまなメニューを開発してきました。
『MARUDELI』の担当者とお話を進めるなかで気づいたのは、食に関する悩みや不安はさまざまで、その原因になっているのはアレルギーに限らないこと。大人数が集まるような会議の場で、用意されているお弁当を食べられないのは、アレルギーがある方に限らないんですよね。ヴィーガンの方や、グルテンフリーを実践している方もまた、同じ悩みを抱えています。
『すべての方が共に同じメニューを食べること』を叶えるためのミールキットなどを開発してきた『matoil』であれば、そうした方々のニーズにも応えられるはずだと気づいたんです。オフィスでのソーシャルインクルージョンという予想外のニーズに私たちmatoilの強みを活かす新しいチャレンジをすることができたと思います。」
この協議をきっかけに『matoil』はアレルギーのみならず、グルテンフリー、ヴィーガン食にも対応するお弁当を開発。『MARUDELI』と提携することで、2024年5月30日から提供を開始しています。
共創に必要なのは担当者同士が事業の解像度を上げて対話をすること
「TMIP Innovation Award」の審査員であり、TMIPメンターを務める守屋さんは、新規事業家として、さまざま企業の新規事業創出をサポートし続けていますが、『matoil』とTMIPによる共創プロジェクトに大きな可能性を感じていると話します。
守屋さん「TMIPの伴走支援からは『matoil』という事業に真剣に向き合い、共にこの事業を大きく成長させようとする姿勢が感じ取れました。
互いに『うちはこんなことができます』と、いま存在するリソースやサービスを出し合っているだけになっている“共創”は少なくありません。でも、それでは新たな価値を生み出すことはできないんです。
『MARUDELI』とのプロジェクトでは、それぞれの担当者が『matoil』が実現したい世界を解像度高く描いた上で、共にその世界を実現するためにはどんな要素が必要なのか、どんなステップを踏むべきなのかを考え抜いている。しっかりと対話を重ねながら、ゼロベースで互いが何をすべきなのかを検討する。それこそが本当の『共創』であり、今回の取り組みは、まさに『共創』を体現しているものだと思っています」

TMIPメンター/新規事業家 守屋 実さん
一方で『matoil』とTMIPの共創のなかでも、壁にぶつかる瞬間を何度も見てきたと語る守屋さん。「新規事業を進めることは一筋縄ではいかない」と強調します。
守屋さん「『matoil』の事例に限った話ではなく、新規事業すべてにおいて、最初から何もかもうまくことが進んでいるわけではありません。この手のインタビューでは『これまでどのような壁があり、その壁をどのように乗り越えましたか』という質問が定番ですが、その質問には答えづらいと思うんです。
なぜならば、新規事業にはありとあらゆる壁が存在し、『壁を乗り越えた』ことを意識する暇もないほど、常に何らかの壁に挑んでいるから。
大企業の既存事業は、完璧なオペレーションが構築されている場合が多いですが、新規事業では自ら“正解”をつくっていかなければなりません。泥臭く行動し続けることが求められますし、どんな壁に直面してもめげずにやり抜く力が必要です。谷さんはそういった力を持った方だと感じていますし、TMIPも谷さんの思いに真摯に向き合ってきたからこそ、素晴らしい共創活動になっているのだと考えています」

『MARUDELI』と開発した(左)【Vegan】 ベーグルサンド MUSHROOM(右)【Gluten Free】 ベーグルサンド FRIED SALMON
「実証」が、新たな顧客層の開拓につながる
『MARUDELI』とのプロジェクトで新たな提供価値の可能性を見出した大淵と谷さんは『matoil』利用者のユーザビリティ向上に向けた検証にも取り組みたいと考えていました。
『matoil』は修学旅行に向かう学生を対象としたサービスを展開しています。同サービスでは、衛生管理上、直接お弁当をお渡しすることも多いそうですが、利用者が増加する中で、どうしてもリソースが足りない状況になったことがありました。
そんな状況を打破するべく、大淵が谷さんに提案したのは冷蔵ロッカーの利用でした。大淵は冷蔵ロッカーサービスを運用しているいくつかの企業をリサーチした上で、移動の起点となる東京駅で冷蔵受取ロッカーを運用しているJR東日本スマートロジスティクスとの連携を模索することに。
同社との協議の末、事前に注文した『matoil』のお弁当を、東京駅構内で指定時刻に受け取ることを可能にするサービスが2024年10月1日よりスタートしました。

冷蔵ロッカーに『matoil』の製品を格納する様子
この取り組みがスタートする以前は、お弁当の手渡しというオペレーション上の負担を下げるための施策として捉えていた谷さんですが、運用を続けるうちにそれまでは認識できていなかったニーズに気づいたと言います。
谷さん「冷蔵ロッカーを用いたサービスは、修学旅行に向かう学生さんや国内旅行者の利用を念頭にスタートしましたが、このサービス開始をきっかけに、インバウンドの旅行者が『matoil』を利用してくださることが増えたんです。
アレルギーがあるインバウンドの旅行者はキッチンが付いているホテルに宿泊して、その場で自ら食事をつくることが多いそうで、その代わりとして『matoil』を利用いただくケースが少なからずありました。
ただし、以前はホテルが受け取れないケースもあり、お受けできなかったり、我々がお客様にお弁当を手渡ししなければなりませんでしたが、冷蔵ロッカーのサービス運用が始まったことで、空港から東京駅を経由してホテルに向かう道中でお弁当を受け取れるようになった。利用シーンが広がったことで、結果的にサービスの利用者が増加することになったわけです」

いつでも安全にお弁当を届けることが可能に
冷蔵ロッカーを利用したサービス運用がもたらしたのは、『matoil』にとっての利点だけではありません。この運用を通して得られた冷蔵ロッカーの利用客のデータは、プロジェクトに参画するJR東日本スマートロジスティクスにもメリットをもたらします。
大淵「どんなお客様が、どういったシーンでこのサービスを利用しているのかについてデータを提供することで、JR東日本スマートロジスティクスも新たな気づきを得て、事業運営に生かしてもらいたいと考えています。
『MARUDELI』の事例も然りですが、さまざまな企業や人、あるいは施設が集まる丸の内エリアだからこそできることは少なくありません。そういった地域の特性を生かした取り組みが増えていけば、丸の内エリアにおいて新規事業の実証実験に取り組む企業も増えるはず。
丸の内エリアを拠点とするTMIPとして、新規事業が生まれやすく、共創で事業成長する環境づくりに向けて、今後もさまざまな取り組みを推進していきたいと考えています」
冷蔵ロッカーを使用したプロジェクトでのポイントを、「お客様視点で物事を捉えていること」と話す守屋さん。3社の熱量はしっかりと利用者にも伝わり、期間限定で実施される予定だったこのサービスの期間延長の要望が数多く届いているのだとか。
守屋さん「自社にとっての利益やビジネスベースで物事を考えるのではなく、お客様の課題を解決することを優先しているからこそ、本当に利用者のためになるサービスが生まれ、結果として利益につながる。改めて顧客目線を持つことが、事業成長にとって重要なのだと気づかされました」
TMIPが目指す“大企業がオープンに新規事業に挑戦する社会”とは
数々の企業との出会いや共創プロジェクトを展開する中で、事業成長につながるさまざまな発見や気づきを得た谷さん。企業同士をつなぐ媒介としてのTMIPの存在が、事業を推進する原動力になったとこの1年間を振り返ります。
谷さん「どの企業にとっても、新規事業はどう変化するかわからないし、“正解”を見出している企業はないはずです。また、新規事業に臨む企業同士が、それぞれの新規事業の実情を共有するのは簡単なことではありません。
だからこそ、共創活動を進めようとしても、事業の『表層』を組み合わせることに留まりがちになってしまう。しかし守屋さんが指摘したように、それだと本質的な共創にはならないと思います。
この1年を通して気がついたのは、互いにそれぞれの事業にしっかりと向き合い、それぞれの強みや課題を深く理解した上で、アイデアやリソースを掛け合わせるからこそ、真に顧客価値を提供するサービスを生み出せるのだということ。
TMIPはそういったことが実現できる場ですし、事務局の皆さんがたくさんの企業や新規事業を見ていらっしゃるからこそ、共創の本質を理解しているように感じています。伴走していただくなかで、改めてTMIPが素晴らしい機会創出の場だと認識しました」
『matoil』の事業成長に向けて、共に走り続けてきた大淵は「TMIP Innovation Award」のスローガンでもある“大企業がオープンに新規事業に挑戦する社会”を実現していく道筋が見えたと、これからに向けての自信をのぞかせます。
大淵「大企業の新規事業は、『会社に利益をもたらすかどうか』で判断されてしまいがちです。ただそうなると、なかなかオープンに新規事業を加速させられず、成長途中で頓挫してしまうことも。
一方、社会的な価値をつくり出すという観点で新規事業を推進すると、社内に閉じることはできず、社外にパートナーを求めることになると思います。そして、社外の視点を取り入れるからこそ、新たな発見や気づきを得て、それらが事業成長を導くこともある。
この1年間、伴走支援するなかで『matoil』が利益ではなく、社会価値を追求していることを改めて実感しました。これから先のアワードでも、高い視座を持った企業や事業がどんどん出てくるはずです。アワードをきっかけに、オープンに新規事業に取り組む大企業が増えていくと信じていますし、谷さんとご一緒する中で、そういった企業と共に新たな価値を生み出せるという手応えを得ることができました」
守屋さんはこの意見に賛同しながら、今回の『matoil』とTMIPの共創プロジェクトの在り方が、新規事業に取り組む大企業にとって、有意義な事例になるはずだと、希望を込めて語ります。
守屋さん「きっと同じように熱量の高い人たちは、どの大企業にもたくさんいらっしゃるはずです。決して『matoil』だけが特別な事例ではないと思っています。強い思いを持つ事業者と、その事業を自分ごととして捉え、積極的にサポートするパートナーがいれば、きっと新規事業はいい方向に進んでいくはず。
今回はTMIP、そして『MARUDELI』やJR東日本スマートロジスティクスの2社が『共に走り、新たな価値を創出した事例』として、とても大きな意味を持っている。この事例に触発されて、私たちも挑戦してみようと、一歩を踏み出す方が増えることを願っています」